精神障がい入所施設での、利用者への虐待について思う事。

一発目の記事の内容にこれを持ってくるのはどうかと思うのですが、ちょっと思うところがあったのと、こういった情報はあまり世に出にくいかもな。と思ったので忘れないうちに書き記していきたいと思います。

先日僕の幼馴染の友人Cが、LINEで僕にあるニュースのリンクを送ってきた。ニュースの内容は、神奈川県の障害者施設「愛名やまゆり園」で起きた虐待のニュースだった。

Cがこの事件のリンクを僕に送ってきたのは理由がある。それは僕が過去に5年ほど上記の事件とは違う場所であるが、同じ様な障がい者の入所施設で働いていた経験があり、障害を持つ方々が暮らす施設の中で起きている事や、そこで働く職員がどういう心境になるのか?それに対しての実情を一般の方より多く体験して知っているからだ。

ニュースの内容を要約すると、2022年度までに約8年の間、この施設では職員から入所者に対して虐待行為が日常的に行われていた。それまで明るみにならなかったが、第三者委員会の調査でそれが明るみになったというものだった。

施設名に「やまゆり」とある為、ピンときた方もいるかもしれないが、2016年に入所者19名が殺害されてしまった、相模原の津久井やまゆり園とは別の施設である。しかし大元の運営は同じ社会福祉法人であった。

友人Cはこう言う…

「過去に社会的に大きな事件を起こしたのに、同じ法人内で虐待が起きるって、やっぱり慣れて普通になってしまうものなのかね〜。」と。僕はCからこのニュースを伝えられ、少し複雑な気持ちを持った。「それは酷いな。けしからん。」という気持ちは抱いたが、その一方で本音として思ったのは…

「まぁ…そりゃ起きても不思議はないよな。」という、福祉従事者として、ある種諦めにも似た気持ちも浮かんだのであった。

良いか悪いか?0か100で割り切れない事

もちろん施設内での虐待は起きてはいけない事。それは当たり前。大前提として当然である。

しかし同業種で働いていた身としては、「正直、虐待をした人たちがどういう気持ちだったのか?どんな状況だったのか?こんな状況だったかもしれない。となんとなくの想像がつく。」

「そして想像通りであったならば、起きても不思議はない」これが正直な気持ちだった。勿論虐待をした人を擁護する訳ではないが、「ああいう状況なら起きても不思議はないな」という思い。そういう思いが綺麗事抜きにあるにはあるのだ。

重ねて言うが、障害をもっている方々への虐待を肯定はするつもりはないし、勿論絶対に起こしてはいけない事だと思う。ただ、実際にそれが起きてしまっている以上、正論だけでは片付かない何かがあり、その何かがあるから虐待をストップ出来ない。これは現実的にあると思うのだ。その何かを今後このブログで少しずつ伝えていけたらいいと思っている。

やってしまう人は、悪い事だとしらないのか?

虐待はもとより、いじめやパワハラ、度を越えると殺人などに繋がるこれらの行為が良くない事は、これを読んでいるあなたは知っているはずだ。というより‥おそらく世の中の殆どの人が知っているはずだ。

だけど現実問題、今もどこかで虐待やイジメは起きており、それが傷害事件や殺人事件として明るみに出ることもある。なくなるどころか近年手口が陰湿になっている感じすらする。

「施設での虐待をしてしまう人」は、あなたを含め多くの人が知っている「虐待はよくない事」を知らないからやってしまうのだろうか?

否。私はそうは思わない。虐待をしてしまう人は、一般的に虐待が良くない事だとは100も承知だろう。仮にペーパーテストで虐待は良くない事であるか?という問題が出たとしたら、間違いなく「はい。虐待は悪い事です。人の心身を破滅に追いやる行為です。絶対にやってはいけません」と解答すると思うのだ。

虐待が良くない事はわかってはいる。という事は自らの行動が「世間一般で言われている虐待行為」と同一の行為として本人が認識していないか、よくない事だと知りつつやっているのか、その2パターンだと思うのだ。

虐待をする人は悪人だ。だけど自分は正義。だから自分の行動は虐待ではない。

なんとなく虐待をしている人には、「冷たい人」「酷い人」「良心の欠如した人」といった感じに、無意識に残虐なイメージや悪人なイメージが付き纏う。そこには自分とは違うどこか違う世界の、とても酷い輩の様なイメージをもってしまう。そんな節もあると思う。これらは殆どの人が無意識に抱く感覚だと思う‥

虐待を行う人🟰悪人である。と定義してしまうのは無意識に殆どオートに行われる。そしてそれとは逆に、人間は基本的に、自分の事を悪人とは思いたくないという性質がある。

大切な事なのでもう一回言わせてもらう!!

人間は、自分自身を悪人として定義するのが嫌という性質がある。

その為、他人が見たら「それって虐待行為なんじゃ?」と思う行為でも、やっている本人からしてみたら、その人自身は、その行為を虐待だと思っていない場合も多々ある。少なくとも「叩くにはしっかりとした理由があるんだ!」と、暴言暴力に正当な理由づけをして正当化し、むしろ自分は正義側であると認識している可能性すらある。

よくある、幼児虐待をする親が子供への暴言や暴力に対して「言う事を聞かない子供への教育だ!」といって自らの暴力行為を正当化、教育やしつけを理由に暴力を振るう。こういった状態は世の中によく見られるし、割とよく聞く話だと思うのだ。

まとめると、暴言暴力などの虐待に類する行為には、やる側もそれを行う何らかの理由がある。そしてその理由を動機に暴力を正統化し「自分の行為は虐待ではない」と定義し、「自分は正義である」と定義し虐待をしているか、もしくはよく無いことだと知っていながら平然とおこなっているか?虐待を行う人は、そのどちらかに大別されると思うのだ。

虐待問題をあえて支援者の側から語ってみたい。

この手の虐待云々を論じる時、殆どの場合、利用者の側にたって語られる事が多い。

まぁ不利益を被った被害者である以上、それはそうなると思うんだけど、まず大前提にあるのが、「障害者は社会的弱者であり、守られるべき存在だ。」「その障害者を虐げるなんて最低だ。」そういう様な一般論が大前提としてあり、世に広く浸透しているという事。

そしてその考えは、半ば聖域と化している為、「障害者を虐待してしまうという事」に対して、問答無用で悪となり、そこの背景に対してはあまり深く踏み込んで考えられていない様な現状もあると思うのだ。

確かに罪のない弱者が虐げられる。これは僕もあってはならない事だと思うし、その通りだと思う。罪のない弱者が虐げられていたらそりゃ胸糞悪くなる。ただ、僕は元支援者なので支援する側の気持ちもよくわかってしまう部分がある。

その結果、思う事の本音の本音を書くと…

重度の障害を抱える人は、本当に混じりっ気なしの被害者なのか?そして虐待をしたという職員は、本当に100%の混じりっ気なしの加害者なのか?そんな思いがあるのである。

福祉施設の職員の中には、もしかしたら生粋のやばい人もいるのかもしれない。ただ大半の人は、我々と変わらない一般人で、腹が立つ事だってあるし、優しい気持ちにもなるし、憎しみを抱く場合もある。

虐待の起きた施設で働く職員の、皆が皆自分とは違う冷徹で、残忍な事を平気で行う根っからの悪人だったのだろうか?いやいや、さすがにそれは違うだろう…

そのコミュニティーにいる人、皆が悪人なんてほぼあり得ないし、良心の欠如したサイコパスという訳ではないだろう。ポンコツな職員もいたかもしれないが、中には良い人もいただろう。となると気づいて止める事だって理屈の上では出来たはずだ。

だが現実に虐待は起きてしまっている。という事は、そこには何かしらの理由で虐待をおきやすい環境や理由が存在していたと思うのだ。

人間は環境動物だ。本来は善人で笑顔が素敵な人であっても、イジメの蔓延するブラックな職場に長年いたら、思考はブラックに染まっていき、行動として出る優しさは減っていく。そして元来持っていた朗らかな人柄は形を潜めてしまう可能性も高い。

虐待があったという事は、虐待をしないように声を上げなかった。またはあげにくいという状態が継続的にあった可能性が高いと思うのだ。

僕の書くこの文章が、誰に読まれて、何の役に立つかは分からない。一般的に語られる様な綺麗事を書く気もないから、もしかしたら気分不快になる人もいるかもしれないし、ショックを受ける人もいるかもしれない。それでも福祉職員を目指す人、身近な方に障害があって入所を考えている人などが、何かを選択する際の参考になってくれたり、読んだ人の一助になってくれれば幸いに思う。

では、一回目の記事はこんな所で。

次回から、僕の考える虐待が起きる際に関係がある環境や要素をあげて、少し深掘りしていこうと思う。

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